ふと思い立って、ずっと読まないで取っておいた赤江瀑の文庫を片っ端から読み始めた。その流れで、というか、棚に並べてある本を順に端から手に取ったので、既読の『夜叉の舌』、『オイディプスの刃』『花酔い』も久々に再読。
読み始めて時間が経てば、さらりと、それでもワインのような後味を感じながら、ずっと読み続けていられるのだけど、やはり読み始めは、その文体、その世界にのめり込む態勢が出来ていないせいか、時間が掛かってしまう。
オイディプスの刃』を初めて読んだ時は、確か学生の頃で、その時の感じたことも本の内容も、いまいち上手く思い出せないような読み方をしていたのにもかかわらず、今この年齢になって読み始めてみたら、朧気に何か、その時の感情が浮上してきて、それとはまた別に新たな感動が生まれてきた。再読の楽しみ。それは今まであまり味わっていなくて(漫画は良く読み返すのだけど)、再読した作品と言えば泉鏡花岩波文庫に収まっている諸作品と、エフィンジャーの『重力が衰える時』くらいのものだ。
エフィンジャーを再読した時は、森奈津子が指摘したジェンダーを取り扱ったSFという読み方をしたのだけど、鏡花は読み返すたびに違う感情が湧き出て来る。自分が本を、ひとりの作家が生み出した世界を味わっていると言うことを指摘してくれる。
赤江瀑も、今回再読して、鏡花の流れに繋がるのだな、と誰もが指摘していることを強く感じた。

ま、それだけのコトなのだけど。

自分の中で作った約束で積読消化したら本を買う、というコトになっているので、久々にジュンク堂で衝動的な感じで本を買ってきた。実は本を買う、買う本を選ぶと言う行為の方が、本を読むという行為よりも楽しいのかもしれない、と不謹慎なコトを考えたり。人の書評が気になって本を選んだり、装丁が気になったり作者が気になったり。
そろそろ新しい出会いが欲しいのですよ。

先日、じゃっくが大学院卒業記念の二人展をやるというので、銀座のギャラリーまで出向いた。休日の銀座は人で溢れかえり、それでも新宿や渋谷で感じる苛立たしいような混雑はなく、なかなか心地よくふらふらと、春先の暖かさにゆられながら、ぶらりと歩行者天国を通り抜ける。
そのゆるやかな時間の流れに乗って花を買い訪れたギャラリーの、その雰囲気が実に「じゃっくらしい」もので満たされていて(と言っても半分だけ)、彼女の作品を何度か見に行ったけど、今回が一番気持ちよく作品に接することが出来た。
彼女の作品は、本当にもう昔から彼女にしかない何かで構成されていて、彼女の感覚がそのまま銅版画としてそこに刻み込まれているとしか説明のしようがない。以前、写真を取り込んだ作品を目にした時は、流石に少しわかりやすくしようと思ったのかな、と感じたのだが、彼女自身その方向性に迷っていた時期だったこともあり、今回見に行った二人展では本人が言っていたことだが「原点に戻った」作品が展示されていた。
私はただもうホントに嬉しくて、時間の経過というのがこんなに美しい形で顕れている存在は他にないんじゃないだろうか、なんて大仰なことまで思ってしまうほどで、今だってその空間を思い出せば本当に優しい気持ちになることが出来るのだ。
そんなわけで、相方の人がエライ気に入ったらしいじゃっくの作品を購入し、今必至になってその銅版画を飾るにふさわしい空間を作ろうとしております。

今読んでいる横光利一の短編集に森村泰昌の「空装美術館−絵画になった私−」展の半券が挟まっていた。何だかついこの間見に行ったような気もするのだが、その実スタンプは98.5.28となっている。なんだ、もう七年も前じゃないか。私は七年もこの本を中途半端に放りだしていたのか、と思いつつその七年間の空白を埋めるように、学生時代テキストとして取り上げられた作品を、読んでいます。再読もあります。授業中に読み終われるような短いものから、授業そっちのけで読みふけってしまう作品まで、ほんとあの時期は良く読んでいたのに。
どうして私は現代の純文系作品を読まなかったのだろうね。

森村泰昌で思い出したのだが、彼の作品スタイルであり、その展覧会のお題目でもある所の自分と絵画のコラージュ(というかコスプレなんですかね、女優になった私に至っては)を客に体感せしめるために会場出口付近に現在ではなにやら私には分からぬ存在となったプリクラが設置してあり、その画面を覘きボタンを押せば観光地の顔抜き立て看よろしく、絵画の中に自分の顔を埋めた写真が撮れるという仕組みであり、当然当時から馬鹿者だった私は安っぽいびらびらしたビニールのカーテンに顔を突っ込んだ。げたげた笑いながら。「市川鰕蔵の竹村定之進」の長い顔の中にすっぽりと収まるおのれの顔。なんたるあほづらじゃ、とにやつきながら、それでも上手く収まろうと必至になって顔を作って歪ませて。そんな必至な自分があんまりにも哀れに感じ、ばかばかしくなった所でようやくシャッターボタンを押し、出てきた写真でまた笑って。芸術ってこんな簡単なもので、こんな簡単に模倣できるものでも良いのか! なーんてその時は思ったけど、コピーは所詮コピーでしかない。インスタントな写真なんて劣化してくだけなんだよな。でもその展覧会の記憶はちゃんと残っている。記憶を残すだけの影響を私に与えてくれた芸術家だ。

とある作家の掲示板での書き込みを読んで、相変わらず真っ当なことを言ってるのに捻くれてるなあ、と微笑ましい思いになりました。不謹慎ですね。
別にはっきりこう、と思ってるワケじゃないので曖昧に書きますよ。
趣味でやっている人間に対しては「愛があるからやっている」と言う風に受取手も感じ、その思いに共感することが出来ますけど。それで生計立ててる人が、それを意識的にやってしまったのか無意識に選んでしまったかはともかく、趣味でやってる人と同じ事をやったらその人の技量というか、仕事に対する姿勢は疑われちまうつうのは想像に難くない。そう言った企画でやっていますというならともかく。それこそ望まない結果が待ち受けているかもしれないわけで。そんな状況を回避するために、作品として出力するのが一人だとしても、そのあとにその作品に触れる人間が用意されているんじゃないんですかね。上手く機能しなかったんでしょうけど。
ひんやりとした空気は私の頭をクリアにしてくれるというのに、緊張感が解けると途端に眠くなる。↑を書いている今まさに半眼。仕事中もぼんやり。仕事量は多くはないけど脳味噌がゆるゆるなので、茫洋とした、拡散していくかのような意識のまま一気に片付けない方がよろしいだろうと思い、いつもの倍ほどの時間を掛けてひとつひとつ取り組む。
だから今日は何か別に書くことがあったはずなのに、眠くてふわふわして思い出せない。まあ、たいしたことではないのだろうけど。

追記。アップルのiMac G5欲しい!

メタファーでもなんでもなく(とヒトコト書くと卑猥ですな)。
きのこが苦手なんです。食べられないわけではないが、これっぽっちも美味しいと思えない。だったら美味しく食べてくれる人の皿の上にぽいっとおいて、その人が満足そうな顔を見せてくれた方が良い、と思うし、そう思った上で「きのこ食べられません」とはっきりきっぱり言い、罪悪感を感じないようにきのこを回避する場面は何度かありましたよ。でもね、さすがに御馳走してくれるという方の前ではそれが出来なくてね。数年ぶりにまいたけ食べました。そりゃ鍋に入ってるのやら御飯と一緒に炊き込んであるのやら、回避するのが一苦労なものは、味わわずにのみ込んでましたけどね。カタマリは久々です。というか、この先一生喰わないつもりでおりました(調理はするだろうけど)。目の前の鉄板の上で焼かれ始めた瞬間に顔が引きつりましたよ。そりゃもうあのもさっとした具合がまず苦手なんですもの。
幸い招待してくれた方が「食べられないんだよね」と気を利かせてくださって、別の人のお皿にまいたけを移してくれましたが。や、正直まいった。
と、こんなどうしょもないオチをつけて自分は何がしたいのだ。



『上海』横光利一講談社文芸文庫ISBN:4061961454
感想が書きにくい作品です。主人公の参木は毎日、日に一度は死にたいと考える銀行員。大雑把に言ってしまえば、渾沌とした上海での共産主義の台頭を描いているわけですが、主人公のひねくれたその性格ゆえに、かえって淡々と物事は進んでいき、結局彼のまわりだけが変化して、彼自身の思想や思考は何も変わらない、という身も蓋もないお話。自分が変わっていくことを極端に嫌っているのです。参木は先のことを考えすぎて、頭を巡らせすぎて、逆に何もかもに興味を失ってしまう。何かに熱中している自分の姿を、自分が起こそうとした行動の先に読んでしまうと、急に熱を失う。死にたいと思う自分が居るのに、矛盾している。だから覚める。その繰り返しで話は進み、彼の性格に変化のないまま唐突に幕が下りる。
政治的な話がそこかしこに出てくるけれど、基礎知識が欠乏している私には上海に進出している、主にヨーロッパの各国がどのようなパワーバランスの下に中国から利益を搾取しようとしていたのか、良く理解できませんでした。けれども何故かこの作品に惹かれる。此処に描かれる上海は様々な人種が集い、それだけに活気があって渾沌とし、その風景の描写は平凡であるけれど、何故か幻想的なものすら感じる。抗日の意識が出始めついに事件が起こるに至った街(それも実に克明に書かれている)の中で生きる、無気力な日本人、参木が熱に浮かされた上海をすっと冷ましてくれる。不思議なバランスの上に立っている作品です。

本日職場で実に面妖なことを言われた。
一瞬フリーズした後、憤慨しつつもその言葉に不本意ながら納得してしまい、そんな自分に混乱したあげく「それって褒め言葉ですか?」とついきつい口調で反応してしまった。すかさず「癒し系って事で解釈していいんですかー?」とフォローしたけど。なんでワシがフォローしなければならんのじゃ。しかし、何と言うことだ。この27年と数ヶ月の間自分のことだというのに一向に気がつかなかったよ。ムーミンに似て居るだなんて! カバに間違えられて動物園に収監され掛けた生き物に似て居るだなんて、そんなことありえない、と思いたい。外見を指摘されたのか雰囲気のことを言われたのか口調なのか声色なのか(岸田今日子?)性格なのか、あえてその辺りは深く考えないことにしておりますが。よし、妖精だと思われたと言うことにしよう。歌手のムーミンに似ていると言われたら窓ガラス突き破って三十数階の高みから飛び降りている所でした。どっちも嫌いじゃないけどさ、やっぱり納得がいかない。と、この話を夕飯後に漏らした所、一緒に御飯食べてた人からも似ていると言われました。なんで気がつかなかったんだろう、とも。なんですと!
しかしだね、そんな事を言ったおっさんのほうがよっぽどムーミン体型というか、信楽焼の狸じゃねえか、と思い溜飲を下げた次第。

学生の頃に取っていた授業で児童文学研究という講義がありました。内容に関してはっきりと思い出せることはほとんど無いのですけど、唯一憶えているのはその先生が、ムーミンのアニメの脚本を書かれていたと言うこと。岸田今日子の方です。原作で名前の無かったノンノンに名前を付けたとか、原作にないエピソードだったかキャラクタだったかをアニメにしたところ、それを見た原作者に大変気に入って貰ったとか何とか、そう言う方。その先生にアニメも良いけど原作もきちんと読みなさいと言う事を言われ、いつの日か読まねばと思って、思い始めてもう随分と経ちます。未だに読んでいませんが未だに読みたいと思い続けている不思議。本屋に積読していると思うとついつい新刊に手を出してしまうのですが、ここ最近は学生の頃に買い溜めた本を読んでいます。
今読んでいるのは横光利一の『上海』。担当教官が横光研究していたのでね。読んだ作品はそれほど多く無いのだけど、題材に似通ったものが全くない所が凄いなと。

君たちはどう生きるか吉野源三郎岩波文庫ISBN:4003315812
意識的にものを考える、というのは実に草臥れる行動だ。無意識下で、平行方向に、同時に存在し、際限なく広がっていく、とりとめもないいくつもの考えを、ひとつの方向に向かわせ、何か答えを得る、とこう言うだけなら簡単なのだけど、私は上手くそれが出来ない。文字にして文章を作成すればある程度は行きつ戻りつしながらも、纏まった(と自分では思える)考えを人に伝えることが出来るのだけど。忍耐力がないのだろうね。
この作品に出てくるちびっこ中学生、コペル君は実に良くものを見て考えている。そんなコペル君をコペル君の叔父さんがさらに観察していて、コペル君のものの見方や考え方が、何を元としどうやって発展していくか、発展させることが出来るか、そう言った示唆をコペル君に与えてくれる。微笑ましい甥と叔父のやりとりの中に、きちんと倫理や哲学の話が組み込まれていて、そのことに私は驚いてしまうのです。こんな愛らしいお話の中に人に何かを考えさせる仕掛けが組み込まれているなんて、何て素晴らしいことなんだって。
それと、コペル君の愛らしさとか素直さとか、賢さも何もかも、全然鼻につかない。ちゃんと少年として描かれているからでしょうね。ああ、そう言えばコペル君って、何だかいさましいちびのトースターを思い出させるなあ。


7℃とかありえない、と言ったその深夜に、北風の窓ガラスをがたがた鳴らす音。我が家は灯油ストーブなので、今年は何台出すか思案のしどころです。こたつは流石にもう出して欲しいなあ。エアコンの暖房は乾燥する上に電気代喰いますし。職場で目薬が欠かせなくなりました。何処ぞの自治体? では取説と共に寂しいご老人に練炭配布したらしいですね。どんなブラックジョークですか。と、こんな些末なことでも考えること。