今読んでいる横光利一の短編集に森村泰昌の「空装美術館−絵画になった私−」展の半券が挟まっていた。何だかついこの間見に行ったような気もするのだが、その実スタンプは98.5.28となっている。なんだ、もう七年も前じゃないか。私は七年もこの本を中途半端に放りだしていたのか、と思いつつその七年間の空白を埋めるように、学生時代テキストとして取り上げられた作品を、読んでいます。再読もあります。授業中に読み終われるような短いものから、授業そっちのけで読みふけってしまう作品まで、ほんとあの時期は良く読んでいたのに。
どうして私は現代の純文系作品を読まなかったのだろうね。

森村泰昌で思い出したのだが、彼の作品スタイルであり、その展覧会のお題目でもある所の自分と絵画のコラージュ(というかコスプレなんですかね、女優になった私に至っては)を客に体感せしめるために会場出口付近に現在ではなにやら私には分からぬ存在となったプリクラが設置してあり、その画面を覘きボタンを押せば観光地の顔抜き立て看よろしく、絵画の中に自分の顔を埋めた写真が撮れるという仕組みであり、当然当時から馬鹿者だった私は安っぽいびらびらしたビニールのカーテンに顔を突っ込んだ。げたげた笑いながら。「市川鰕蔵の竹村定之進」の長い顔の中にすっぽりと収まるおのれの顔。なんたるあほづらじゃ、とにやつきながら、それでも上手く収まろうと必至になって顔を作って歪ませて。そんな必至な自分があんまりにも哀れに感じ、ばかばかしくなった所でようやくシャッターボタンを押し、出てきた写真でまた笑って。芸術ってこんな簡単なもので、こんな簡単に模倣できるものでも良いのか! なーんてその時は思ったけど、コピーは所詮コピーでしかない。インスタントな写真なんて劣化してくだけなんだよな。でもその展覧会の記憶はちゃんと残っている。記憶を残すだけの影響を私に与えてくれた芸術家だ。