告知
久しぶりの更新ですが、告知です。
5月10日(日)の第8回文学フリマに参加される鳥子(id:torico)さんの同人誌に寄稿しました。
短編小説です。相変わらずのぼんやり具合です。目次のところに「★ゲスト★」って書いてあって、そんな私なんかに、って恐縮してしまいます。
そして5月5日(火)にはコミティアにて自サークル、温泉卵と黙黙大根で参加します(新刊はありません)。スペースは「す19b」。主に短編小説誌を販売しております。
家にいる時間が長くなると、今までできなかった家事をあれもこれもと手を出し始め、結局気がつくと夕飯を作らねばならない時間、という毎日を過ごしております。毎朝七時起き。この季節は早い時間に洗濯すると昼前には乾いているので助かります。
……読み返すとぼろぼろと書き落としが。
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あけましておめでとうございます。
年末、30日から新年元日まで、住まいである東京を離れ、山陰の方へ旅をしてきました。というか、相方の写真の旅に便乗してきました。
強い風と、それに混ざる霙、雪。東京とは比べものにならないほどに寒かったのですが(久々に手袋をしました)、見るもの全てが美しく、見たこともないような風景が連なり、土地の食事は美味く、酒はワインも日本酒も何もかも旨い! と、絶賛の絶えない三日間でした。写真はそのうち相方の人がはてなに上げてくれると思います。
予想以上に堪能したのが水木しげるの故郷、境港。妖怪像をひとつひとつ眺め、のんのんばあとおれのブロンズ像で感動し、商店街の方々の努力に感服。調布の比じゃないです(調布も素敵だけど)。観光客のお年寄りの方までが嬉しそうにねずみ男やら鬼太郎やらと写真を撮っていた姿を見ながら、改めて水木先生ってすんげい人なんだなと思いました。
それと、境港で酒蔵見学もしました。印象に残ったのが日本酒は原材料から酒にするまでに、二段階掛かっていると言うこと。ワインもビールも、原料の糖分がアルコールになるけど、日本酒は米のデンプンから糖にしてアルコールに変えるので、他のアルコールよりもひとつ手間が掛かるのです、と言うお話。や、もやしもんでの予備知識はそれなりにあったつもりですけど。ホントもう有り難く頂きます。頂いてます。
というわけで、写真はその酒蔵で購入した酒二種。どちらもかんっと味が来て、くわーっとうまみと香りが広がります(ってわけわからんな)。
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逆柱いみり展 怪獣町内会長
金曜日に半休を取って行ってきました。ビリケン商會さんに行くのは二度目。前回と同じく骨董通りを歩いて、道が合っているのかどうか不安になる頃にギャラリーを発見。
リンク先の写真で見る限りだとそうでもないですが、コントラストの強い色遣いが頭突き抜けるほどに目に刺さる。それでいて細かい描き込みもきっちりしているので、じっと向かい合ってとっくりと絵を見ていると、ぐわんぐわんしてキテ非常によろしくない。よろしくないけど、釘付けになって動けない。
失礼な言い方になるかもしれないけれど、逆柱さんのイラストはどんどん上手くなっている。それは絵の構図とか、描き方とか、いろいろ工夫されておられるからだろうとは思うけど、なによりも、きっと楽しんで絵を描いているに違いない、と思わせるほどの偏執狂的な描き込みが、よりいっそう深くなっている所に現れている。夢ン中の風景。しかも悪夢に近い。それでいて引き寄せられる醜悪さ。猥雑さ。どこか不安な、歪んだ構図。正直気持ち悪いけど、目を背けつつも見てしまう。けどそれってきっと、作者の脳内風景がぽんっとさらけ出されているからなんでしょうね。
平日の昼間と言うこともあってか客は私以外いず、さほど広くないギャラリーを、ぐるぐると30分ほど見ておりました。幸せなり。
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先週後半、大阪に三日、金沢に一日滞在した。というか、大阪に行くという家主について行った。旅行めんどくさい、外出るのも億劫という怠惰な人間なので、無理矢理にでも外界に連れ出してくれる人が傍らにいる、と言うのは正直有り難く思う。
外を出歩いて町中彷徨って妙な建物や雑多な街並みの写真を撮る家主を日陰でぼんやり(暑さにうんざり)待ちながら、道行く人々を見る、というおおよそ観光とはほど遠い旅行だったのだけど、強い陽射しの下を延々歩くという行為以外はおおむね興味深く、やっぱりねと言われるとは思うのだが、酒呑んで地元の人と話すのが一番面白かった。
不思議と酒を呑んでもほとんど酔わず、酔わないことを良いことに、昼からビールをあおり、三時にもビール。夜は宿近くのバーに入って、ビールとカクテルぐいぐいやりながら、店員さんと常連さんの、大阪の雑多で面白い場所はどこだ、というプレゼンを拝聴。ほとんど思い出せないんだけど。程よく酔いが回って来た頃、小説やら映画やら漫画の話になって、なんか文化的な素養のある人たちだなーと思いながら、幸せな気分に浸る。途中、何故か諸星先生の話になって『栞と紙魚子』が如何に面白いかという話で盛り上がった時に「さすが東京の人は違う」と感心され、東京人に関する誤った知識を与えてしまったまま「そうですかねー、たはは」と苦笑い。つか、その発言をしたおっさん自身、結構なオタクだ。
人と通じ合える喜びは、そこにいたるまでの過程が困難なほど大きいものだよな。旅行中、移動時にアーサー・ビナードのエッセイを読んでいて、彼もそんな風に思いながら日本に馴染んでいったのだろうか、とふと思った。
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小学生ぐらいの頃まで、お祭りの、低く轟くような太鼓の音が苦手だった。小刻みに、緩急をつけ、延々と続くリズム。側で聴いていると落ち着かず、ざわざわと、胸が震える。体幹が揺さぶられるような、日常では感じられない何かに、叫び声を上げそうになる。私はそんな、言葉にならない衝動が自分の内から湧き出ているということがとにかく怖くて、じっとしていられず、親の手を引っ張って、夜店の何かをねだりに、夜道を急いだ。親の言うことを良く聞く良い子だった私は、自制できない自分を極度に嫌っていた。今思えば、それも原因のひとつだったと分かる。
後年、リズムにのって騒ぐ、と言うことが出来るようになって、ようやく太鼓に対する不気味さは払拭された。一時期、ライブに通い詰めた時期があって、ようやく自分のうちから湧き出るモノの処理の仕方を覚えたからだ。
ここの所ずっと同じアーティストの楽曲ばかりを聴いている。同居人の持っているそのアーティストのCDを延々と流し続けていると、幼い時の、太鼓の音に関する記憶が蘇って来る。そして、その時に感じていたのが一体何だったのか、その本当のところが、何だか分かった気がした。
延々と続く、緩やかで厚みがある音、繰り返されるフレーズ。徐々にボルテージが上がっていき、頭がおかしくなりそうになって、次第に曲が遠のいていく。自分の中に何かが存在し始め、それは性的な衝動に繋がろうとする。それが、凄く怖い。
私はいつだって叫び声を上げることが出来る。跳ねるように踊り出すことが出来る。ある一点を通して全てを見ることが出来る。
多幸感が支配するその音の洪水がライブではなくてCDでもたらされるなんて、どういったことだろうと、疑問に思いながらも、ライブを見に行ったら、私はどうなってしまうのだろう、という、興味もある。
この一週間、私はとても幸せだ。